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「APFR®︎」菅澤圭太にきく、まだここにないものを創るということ。— 中編 —

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  「APFR®︎」菅澤圭太にきく、まだここにないものを創るということ。— 中編 — 「sost.」のオーナーであり、「kearny」のデザイナーの熊谷富士喜と「sost.」にまつわるクリエイターを迎えた対談コンテンツ。前回に引き続き、「kearny」立ち上げ前から親交のある「APFR®️(アポテーケ フレグランス)」のディレクターを務める菅澤圭太さんをお迎えして、熊谷との出会いから、二度のコラボレーションの思い出について教えていただきました。 — 日本で「APFR®︎」のようなフレグランスブランドが広がっていったのは最近の話なんですね。 菅澤 そうですね。メゾンの香水ブランドや「diptyque(ディプティック)」はあったけれど、「OFFICINE UNIVERSELLE BULY(オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー)」や「Aesop(イソップ)」も日本にほとんど入ってきてなかった。だから、当時の香りものといえばみんなアメリカとかの柔軟剤でした。 熊谷 確かに柔軟剤の香りが流行ってましたね。僕の周りでは、お香が流行っていてみんな似たような匂いが身体に染み付いていました。 菅澤 野外フェスに行くとそういう悪い感じの香りがどこでもしていたよね。一般の人からすると、非合法のものでも燃やしてるんじゃないの?って思われるような(笑)。 熊谷 確かに。僕もちょっと悪ぶりたくて焚いてたときありましたもん。悪い=かっこいいと思っていた時期がやっぱりあったんです。で、親から臭いって怒られていました(笑)。 — お二人はいつ頃から親交があるのですか? 熊谷 2012年ごろから祐天寺の「Feets」で取り扱いをさせていただいているのですが、共通の友人である「ENDS and MEANS(エンドアンドミーンズ)」の内山太郎さんに紹介してもらったのがきっかけです。 菅澤 その太郎くんが二代目以降のパッケージデザインを担当してくれていて、ちょうどパッケージが変わったころに紹介してくれたんだよね。 熊谷 当時、僕らも香りの商品をずっと探していて、なかなか国内でいいブランドに出会えなかったんです。そのタイミングで突然連絡をもらったので驚きました。パッケージデザインから洗練された印象で。以前ので使っていたラベルなどはポートランドで印刷されていたんでしたっけ? 菅澤 そう、ポートランド。 熊谷 

「APFR®︎」菅澤圭太にきく、まだここにないものを創るということ。— 前編 —

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  「APFR®︎」菅澤圭太にきく、まだここにないものを創るということ。— 前編 — 「sost.」のオーナーであり、「kearny」のデザイナーの熊谷富士喜と「sost.」にまつわるクリエイターを迎えた対談コンテンツ。今回は、「kearny」立ち上げ前から親交のある「APFR®️(アポテーケ フレグランス)」のディレクターを務める菅澤圭太さんをお迎えして、菅澤さんのこれまでのキャリアからブランドを立ち上げまでの紆余曲折の苦労話まで幅広くお話を伺いました。 — まずは、APFRができるまでというところで菅澤さんのキャリアを踏まえて教えてください。 菅澤 ブランドをスタートしたのは、2011年の7月から。そこまでの僕の経歴をお話しすると、高校を卒業して20歳くらいまでは、HIP-HOPのDJを夢見る青年でした。DJの下積みをずっとやっていたのですが、クラブ業界でやっていく自信がなくなり、その時にちょうどクラブ界隈でアパレルメーカーに勤めている方と知り合って、アパレル業界に興味を持つようになりました。そこから1年後くらいに、彼が働いている会社を受ける機会をいただいて、アパレル会社のセールス担当として就職をしました。 熊谷 アパレルも経験されていたんですね。 菅澤 アメリカを中心にインポートの卸しプラス自社のブランドも持っている会社で、そこに営業で入りました。当時はネットもないし、東京で展示会やるとなったら、地方のバイヤーさんたちを東京呼ぶというような東京主導の動きだったんです。でも、うちは小さい会社だったから電話営業しないといけなくて、そう簡単には取り合ってもらえなかったのでとにかく行くしかないなと。入社一ヶ月目くらいからサンプルをいっぱい持って、飛び込みで全国をドサ回りし始めました。 — 社会人一ヶ月目でその行動力はすごいですね。 菅澤 だんだんと取扱店も増えていって、ある程度実績を残せたタイミングでその会社にいたデザイナーとプレスの3人で独立をしました。 熊谷 展開が早い…! 菅澤 自分たちで会社を起こして、ブランド名を変えてやり始めたのですが、そのブランドはうまくいかなくって。僕もまだ25歳くらいで若かったし、変に調子に乗っていて。借金も背負ってしまい、精神的にもズタボロになっていました。そこで見かねた父親に「帰ってこい」と一喝されて、実家に帰ることになりました。

「荒岡眼鏡」三代目・荒岡俊行と考える眼鏡の歴史と未来。— 後編 —

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  「荒岡眼鏡」三代目・荒岡俊行と考える眼鏡の歴史と未来。— 後編 — 「sost.」のオーナーであり、「kearny」のデザイナーの熊谷富士喜と眼鏡業界をリードするアイウエア専門店「blinc(ブリンク)」代表の荒岡俊行さんによる対談コンテンツ。今回は、眼鏡の未来や荒岡さんの考える「kearny」の魅力など、ここだけの話を対談形式でお届けします。 熊谷 以前、眼鏡のために作られた素材がないというお話をしたことがありましたよね。セルロイドやレンズなど他の用途から転用されたものの集合体なわけで、眼鏡のためだけに考えられた素材が生まれてやっと未来のターンの話ができるのかなと個人的に思っていたりします。でも、生産していても、デザインしていてもそんな話は全然聞こえてこなくって、逆に誰がそこまで眼鏡に愛を持って動いてくれるのかなとか、今後国が動いてくれることはあるのかなとかときどき考えてしまいます。 荒岡 そうなんですよね。それこそ大手の素材メーカーとかが毎年すごい開発をしていると思うし、何かしら眼鏡に応用できるものがあるんじゃないかなとも考えるのですが、膨大な発明のなかから眼鏡に合うものを選ぶ人がそもそもいない。また、それを選んだところで作るとなると設備を一から整えないといけないんですよね。 熊谷 そうなんですよ。素材しかり作り方しかりある種出きってしまっている部分もある気がしますし。 荒岡 そう考えると、80年代にデンマークの「LINDBERG(リンドバーグ)」が開発した眼鏡は本当にすごいことだと思います。未だにあのかけ心地を超えられる眼鏡って存在しないと思うし。 熊谷 すごいですよね。作る側になった今でも意味がわからないです。 荒岡 イタリアやフランスに予算や生産力で勝てないからこそ、今ある環境を生かしてメガネ作りをするうえで、まず彼らが考えたのは眼鏡にとって何が必要かということ。その結果、眼鏡をかけていない状態を再現することが究極なのではと、余分なパーツを極力使わずにふわっとしたかけ心地を追及したと言われています。このような先人たちの功績を考えると、そういうチャレンジを今熊谷さんとかがやったら面白いと思うんですよね。 熊谷 急にハードルが上がりましたね(笑)。 荒岡 でも、そこはもう熊谷さんくらいしかいないんじゃないかなって思うんですよね。今の眼鏡に何が必要なのか真剣

「荒岡眼鏡」三代目・荒岡俊行と考える眼鏡の歴史と未来。— 前編 —

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  「荒岡眼鏡」三代目・荒岡俊行と考える眼鏡の歴史と未来。— 前編 — 「sost.」のオーナーであり、「kearny」のデザイナーの熊谷富士喜と「sost.」にまつわるクリエイターを迎えた対談コンテンツ。今回は、「kearny」とも関わりの深い眼鏡店「blinc(ブリンク)」のディレクターを務める荒岡俊行さんをお迎えして、荒岡さんのこれまでのキャリアから、アイウエアの歴史まで幅広くお話を伺いました。 — まずはじめに、お二人の出会いについて教えてください。 荒岡 2018年か2019年ごろにCIBONEさんで「kearny」を見かけたのがきっかけでした。プロダクトと一緒にブランドやデザイナーのプロフィールが書かれているので、そこで熊谷さんの名前を知ったという感じ。名前からちょっとハードな印象を受けて、恐る恐る声をかけました(笑)。 熊谷 画数が多いですからね(笑)。「blinc」さんは眼鏡のセレクトショップといえばすぐに名前が挙がるお店なので、「kearny」を始める前からもちろん知っていました。当時はアパレルやライフスタイルショップでの取り扱いがメインで眼鏡屋さんには一社も卸していなかったので、お声がけいただいたときは純粋に嬉しかったですね。ついに打順が回ってきたぞ!みたいな。 荒岡 実際にお会いしてみたら全然違った印象で、ほっとしたような感覚を覚えています。本来は商談としてうちの店にきていただいたのですが、「kearny」のプロダクトの話はほとんどせずに色んな眼鏡の話をしていたらあっという間に時間が経っていました。 熊谷 僕からしたら業界の大先輩なので何を話したらいいのか分からず、終始緊張していたのを覚えています。 荒岡 自分ではあまり先輩・後輩というような感覚はないのですが、気づけば周りから「いい歳だ」と言われるようになってきましたね。 — 代々眼鏡屋を営む家系に生まれ、業界のなかで育ってこられたからこそ、そういった上下関係と少し距離があるような感覚なのでしょうか? 荒岡 そうかもしれません。生まれたときからそばに眼鏡があったので、ナチュラルボーンでやっているというか。実家は家に商店がついているような形だったので、学校が終わったら店に帰るみたいな感じ。眼鏡をいじったり、店に出入りする業者さんから修理の仕方を教わったりと、眼鏡が生活のなかにあるのが当たり前だっ