「Owltec.」結城卓也と熊谷富士喜、20年来の関係性で実現した「sost. jiyugaoka」。 — 前編 —

 「Owltec.」結城卓也と熊谷富士喜、20年来の関係性で実現した「sost. jiyugaoka」。 — 前編 —


「sost.」のオーナーであり、「kearny」のデザイナーの熊谷富士喜と「sost.」にまつわるクリエイターを迎えた対談コンテンツ。今回は、熊谷とは20年来の親交がある「Owltec.」の結城卓也さんを迎えて、熊谷との出会いから結城さんのユニークなキャリア遍歴まで幅広くお話を伺いました。


— お二人の出会いはいつ頃ですか?

結城 25歳くらいの時に古着屋をやっていたんですけど、その店の近くのフリークスストアで富士喜がアルバイトしていたんです。

熊谷 フリークスストアの先輩が結城さんの友人だったんです。店が近いこともあって休憩中にタバコ吸いに行かせてもらったり、もちろん古着を買いに行くこともありました。

結城 フリマを一緒にやったり、普通に仲のいい友達って感じでした。

熊谷 学生時代はとにかく古着屋をやりたいと思っていたから、原宿という場所で自分の店をやっていた結城さんは憧れというか、僕の中ではひとつの目標のような存在でした。



— 古着屋として独立もされていたところから、転向されたんですか?

結城 その頃はちょっと変な古着ブームで、綺麗な状態の上質な古着よりも汚くてボロボロであればあるほど売れる時代だったんです。海外に買い付けに行ってもそういう服がどんどん値上がりしていて、好きだった古着がめちゃくちゃ嫌いになっちゃったんですよね。

熊谷 異様でしたよね。ボロい方が値段が高いという謎の仕組みが出来上がっていて。

結城 そんなときに映画用の衣装リースの依頼が入ってきたんです。松本人志の『しんぼる』という映画で、ルチャ・リブレのシーンがあるから海外のエキストラ用に150セット用意して欲しいと。国内の業者さんに掛け合ってなんとか衣装を集めて、撮影の現場に行ったらめちゃくちゃ面白かったんですよ。

熊谷 そういった映像の現場は初めてだったんですか?

結城 衣装提供とかはしていたけれど、現場に行ったのは初めてでしたね。撮影所の中のスタジオに、ルチャ・リブレの本格的なセットも作られていて、その非日常的な空間もかっこよかったし、みんなで作り上げるお祭りのような感覚もすごく新鮮でした。その日の帰りに、もう古着屋は辞めようって思って辞めました。

熊谷 その決断はすごいですよね。結城さんが店を畳むと聞いて、在庫や備品を買わせてもらったのを覚えてます。ちなみにあのとき譲ってもらったレザーのハラコはまだ「feets」の試着室で使っています。


— そこから美術の仕事へ?

結城 店を辞めてすぐに現場でお世話になった美術監督さんのところで働かせてもらえないかとお願いしに行ったんです。でも、未経験だといきなり美術の仕事はできないから、1回テレビ局にいったら?と言われて、テレビ局の美術部に入ることになりました。

熊谷 テレビ局はすごく忙しいだろうし、きっと過酷な労働環境ですよね。

結城 時代的にもハラスメント全盛期で本当に大変でした。とにかく3年でトップになって、局員になってやると意気込んでがむしゃらに働いていたのですが、そのタイミングで震災があったんです。一時的に現場も少なくなって、あまり必要とされていないんじゃないかと考えるようになった時に、内装の仕事に興味を持つようになり、転職することに。そこで5年半働いて、独立しました。

富士喜 内装と違ってそういう撮影美術はめちゃくちゃ頑張って作っても、そのカットが終わったら壊してしまいますもんね。

結城 そうそう。でも、美術の現場を経験したおかげでイベントの仕事もできるようになったし、今でも当時のテレビ局の美術部にはお世話になっていて、困った時には助けてもらっています。だから、すごく意味のある時間だったなと思います。



富士喜 僕からするとやっぱりあの時古着屋としてお世話になっていた結城さんが、この業界で活躍しているのは今でも本当にすごいなと思います。あの若さで自分のお店を持つというのはなかなかできることではないですし。

結城 あの時代はあの時代ですごい楽しかったよ。毎週のように飲んでいたし、富士喜もそうだけどアパレル時代の友達は未だに付き合いもあって、今ではみんな独立したり、昇進したりして、お店を作って欲しいって連絡をくれることもあるので。1周回って違う立場から一緒にモノづくりができるというのは、すごく楽しいです。

熊谷 「feets」のオープンの時も結城さんに手伝ってもらっているんです。当時は全然お金がなかったから、お願いしたというよりも「助けてください」みたいな感じだったけど(笑)。リニューアルの時もお願いさせてもらいました。

結城 リニューアルの時もなんか飲み会の延長みたいな感じでやってたよね。

熊谷 当時の思い出はやっぱり朝の6時に結城さんをバイクに乗せて会社まで送り届けたことですね。




— どういう状況ですか?(笑)

熊谷 最初の「feets」の場所って、上の階が託児所だったんです。日中はなかなか作業ができなかったので、夜中に作業していたら朝になっちゃって。

結城 当時は会社員だったし、日中は普通に仕事があったからね。

熊谷 全然寝てなくて、ただただアドレナリン全開。真冬の多摩川沿いを100ccくらいの小さいバイクで2ケツしたのは忘れられないです。

結城 そう考えると富士喜とは色々やってきたね。僕らの仲間の中でも富士喜は1番若いんです。独立したり、デザイナーになったりして忙しくなるとなかなかみんなで集まる機会がなくなってきたけど、唯一ここは定期的に会っているね。


Interior installer:結城卓也

https://owltec.jp/


写真 : 香川賢志

文:市谷未希子









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