陶芸家・野口寛斎のこれまでと魅力、そしてこれから。— 前編 —

 陶芸家・野口寛斎のこれまでと魅力、そしてこれから。— 前編 —


「sost.」のオーナーであり、「kearny」のデザイナーの熊谷富士喜と「sost.」にまつわるクリエイターを迎えた対談コンテンツ。今回は、「sost.」で作品を取り扱う、陶芸家の野口寛斎さんをお迎えして、寛斎さんのこれまでの軌跡から、モノ作りに対する姿勢、そして二人の意外な共通点まで、ここだけの話を対談形式でお届けします。


— まずはじめに、寛斎さんのこれまでについて教えてください。


寛斎 27歳までは福岡で音楽活動をしていて、東京の事務所に声をかけてもらったことをきっかけに上京しました。当時は事務所が借りてくれた1軒家にバンドメンバー4人で住んでいて、週に12曲を作るという課題があったので、当時はとにかくバイトと課題に追われる日々でしたね。そのうちに、音楽の仕事をもらうことも増えてきて、他のミュージシャンと話したりするようになるとだんだん、「社長のやり方でいいのかな?」という思いが出てきてしまって、作りたい曲の方向性にもズレが出てきて、自分たちのやりたいことは違うと伝えて事務所を辞めることになりました。




熊谷 その生活は何年くらいされていたのですか?


寛斎 3年ほどです。辞めたあとは、自分たちで自主レーベルを作って好きな曲をレコーディングしたりもしたのですが、売る力も続けていく力もなかったので、やはりバラバラになってしまって。結局バンドは崩れていきました。その頃に、僕自身も音楽を続けるのかどうかを真剣に考えようと思い、憧れのR&Bの聖地であるアメリカに行くことにしました。もう30歳だったし、ここで白黒つけようと思って。


熊谷 アメリカのどのあたりに行かれたんですか?


寛斎 クイーンズのノーザン・ブルーバードというヒスパニックだらけのエリアで、アメリカ感は全然なかったですね(笑)。現地で本物の音楽に触れるなかで「人種的に自分がこのジャンルの音楽をやるのは無理だ」と感じ、辞める決心をしました。アメリカで滞在中に、向こうの友達にたくさん美術館に連れて行ってもらったのですが、その時に初めて美術に興味が出てきたんです。アメリカ人目線で「日本のアートはかっこいい」と逆に教えられて、だんだんとかっこよく見えてきて。日本人としてそういうものを一から勉強すれば、きっと戻ってこれるんじゃないかみたいな感覚になってきたんですよね。音楽は諦めたけど、もう一度ここに戻ってきたいという夢ができました。


熊谷 僕にも似たような経験があります。「kearny」を始める前は古着屋として古着の買い付けでアメリカによく行っていて、そこですごくお世話になったディーラーさんがいたんです。本当にいろいろなものを集めている方だったので、ヴィンテージのワインやスピーカーといった幅広い知識を教えてもらうなかで、ヴィンテージのメガネについても色々と教わりました。でも、ある時彼に「ヴィンテージのメガネを買うのはやめて、日本のものづくりの良さをちゃんと見ろ」と怒られたんです。これ以上ヴィンテージを買っていても未来がないというか。でも、それをきっかけに作ることについて考えるようになって、ヴィンテージを買う側からモノを作る側に切り替わったという経験があって。現地で日本の良さを知るという部分で近い経験だったのかなと思います。


寛斎 選択肢を見極めることって一番大事ですよね。犬だってポメラニアンはどう頑張ってもゴールデンレトリバーにはなれないんだから、ポメラニアンとしての良さを見つけるしかないのと同じように、どうにもならないことはあるから。だからこそ、本物の空気にきちんと触れることも大事だなとも感じました。





熊谷 アメリカで美術品を観られたなかで、印象に残っているものはありますか?


寛斎 やっぱりイサム・ノグチ ミュージアムの印象が強いですね。イサムは日系なので親近感を持てましたし、あの和のテイストが世界で認められているということに、日本人の成功の仕方として小さな光が見えた気がして。もしかしたら自分も一歩ずつ、じっくりと時間をかけていけば開いていけるんじゃないかという感覚がその時はありました。


熊谷 陶芸を選ばれたのはなぜですか?


寛斎 今からやるとなると絵はある程度技術がいるし、間に合わないなと思いました。そうなると陶器かなと。陶器はなぜか間に合わないと思わなかったんですよね。今思うと浅はかだし、なんでそんなふうに感じたのか本当に不思議なんですけど(笑)。


熊谷 陶芸を始めたのは30歳からなんですか?


寛斎 31歳ですかね。今年41歳になるので、ちょうど10年目です。


熊谷 「kearny」もちょうど10年目なんです。近い時期に新しいことに挑戦していたんですね。そこからはどのように陶芸家として経験を積まれたんですか?


寛斎 帰国してまずは陶芸教室に通いました。また、知人経由でアシスタントを探している作家を紹介してもらって、鉄を使った美術家の方に弟子入りしました。制作の形は違いますが、美術の仕事についてはそこで多くのことを学びました。アシスタント業の休みの日に教室に通うという生活を3年くらいして、ついに自分のろくろと窯を買って自宅で制作を始めるまでになりました。


熊谷 では、本格的に自分の作品を作り始めたのはここ7年くらい?


寛斎 そうですね。陶芸に関しては基礎の基礎は教室で教わりましたけど、そこからは自分で一生懸命やりながら独学という感じです。しかも、3年前くらいまでは建築の会社で働きながら作品を作っていました。


熊谷 本当ですか?全然知らなかった。それにしても、この自宅兼アトリエはとてもいいですよね。


寛斎 こんなマンションで作ってるって、なんか根暗な感じがしていいですよね。


熊谷 マンションというのがすごいですよね。普通のマンションで制作できるんだって驚きました。


寛斎 マンション陶芸(笑)。でも、普通のきちんと管理されているようなところだと難しいと思いますね。ここは良くも悪くもあまり管理会社が出てこないところだったので、やりたい放題。ここの前は2LDKの今よりも狭いマンションだったので、ずっと台所の前で作っていて、台所陶芸からは一応アップデートしたという感じです。実は、来年あたりに山梨へ移ろうと思っていて、今まさに自宅兼アトリエの施工準備に追われています。地元の大工さんに直接お願いをしているので、ドアノブ一つから自分で考えなくちゃいけないし、図面も引いています。建築の仕事が思いもよらないところで役になっているんだなと感じてますね。




熊谷 寛斎さんのキャリアアップはとても早いほうじゃないですか?


寛斎 そうですね。みんな5年から10年くらいかけて独立して、そこから少しずつ売れていくものだから、僕はうまくいったほうだと思います。もう40代だけど、キャリア的には若手作家扱いですけどね。息が長い仕事なので、10年後にはどうなっているのか自分でも楽しみですね。


熊谷 今やっていることをやめて、新しいことに挑戦しようとしている人にとってすごい夢がありますよね。30代から思いっきり新しいことを始めているけれど、20代までのキャリアもどこかで活きているので。


寛斎 陶芸家になるためには音楽の10年間っていうのが必要だったと思います。ほかの陶芸家には出せないものもきっとあると思うし、むしろないと勝てないと思う。そこは自分の強みというか、どう生かしていくかなんだろうなと思っています。だからこそ、土や釉薬といったマニアックなほうには行きすぎないようにとも考えています。


熊谷 難しいですよね、陶芸をどこまで突き詰めるのかって。


寛斎 僕の場合は、アートとしてどういうものを作っていくかというテンションを大事にしていて、そうなるとやっぱり形ですよね。形だったりデザインとかアート性みたいな面白さとかにばかり目がいってしまう。そこを追求していく方が面白いし、好きです。





— 独学で学ばれていくなかで、どのように今の作風に辿り着いたのでしょうか?


寛斎 自然になってきたという感じですかね。はじめは白い作品を作っていたのですが、たまたま絵を描いて焼いたのがきっかけで、綺麗なものを崩したいということを考えてやってみて、結果的に評判がよかったので続けてきて、今はこのシリーズが主になってきているんですけど。当初イメージしていたものとは全然違うものになっていますね。自分の作品がいいか悪いかは今でも分からなくて、評価してくれている人がいることが指標になっています。あとは、自分がそれを作りたいか、作りたくないか。そこを考えながら続けている感じです。


まだまだ続く、対談インタビュー。後編へ続きます!





Japanese Potter:野口寛斎

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写真:木原 隆裕


文:市谷未希子


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