「APFR®︎」菅澤圭太にきく、まだここにないものを創るということ。— 前編 —

 「APFR®︎」菅澤圭太にきく、まだここにないものを創るということ。— 前編 —



「sost.」のオーナーであり、「kearny」のデザイナーの熊谷富士喜と「sost.」にまつわるクリエイターを迎えた対談コンテンツ。今回は、「kearny」立ち上げ前から親交のある「APFR®️(アポテーケ フレグランス)」のディレクターを務める菅澤圭太さんをお迎えして、菅澤さんのこれまでのキャリアからブランドを立ち上げまでの紆余曲折の苦労話まで幅広くお話を伺いました。


— まずは、APFRができるまでというところで菅澤さんのキャリアを踏まえて教えてください。


菅澤 ブランドをスタートしたのは、2011年の7月から。そこまでの僕の経歴をお話しすると、高校を卒業して20歳くらいまでは、HIP-HOPのDJを夢見る青年でした。DJの下積みをずっとやっていたのですが、クラブ業界でやっていく自信がなくなり、その時にちょうどクラブ界隈でアパレルメーカーに勤めている方と知り合って、アパレル業界に興味を持つようになりました。そこから1年後くらいに、彼が働いている会社を受ける機会をいただいて、アパレル会社のセールス担当として就職をしました。


熊谷 アパレルも経験されていたんですね。


菅澤 アメリカを中心にインポートの卸しプラス自社のブランドも持っている会社で、そこに営業で入りました。当時はネットもないし、東京で展示会やるとなったら、地方のバイヤーさんたちを東京呼ぶというような東京主導の動きだったんです。でも、うちは小さい会社だったから電話営業しないといけなくて、そう簡単には取り合ってもらえなかったのでとにかく行くしかないなと。入社一ヶ月目くらいからサンプルをいっぱい持って、飛び込みで全国をドサ回りし始めました。



— 社会人一ヶ月目でその行動力はすごいですね。


菅澤 だんだんと取扱店も増えていって、ある程度実績を残せたタイミングでその会社にいたデザイナーとプレスの3人で独立をしました。


熊谷 展開が早い…!


菅澤 自分たちで会社を起こして、ブランド名を変えてやり始めたのですが、そのブランドはうまくいかなくって。僕もまだ25歳くらいで若かったし、変に調子に乗っていて。借金も背負ってしまい、精神的にもズタボロになっていました。そこで見かねた父親に「帰ってこい」と一喝されて、実家に帰ることになりました。


熊谷 千葉に帰ってきたんですね。


菅澤 父親が長年勤めていた会社の社長さんが声をかけてくださって、合成樹脂の商社で働くことになったんです。


熊谷 激動の20代を過ごしてこられたんですね。



菅澤 本当にお金もないし、身一つで全部が終わったような状態でしたね。「サラリーマンなんてやりたくない」とか言いながら、辿り着いたのはビシッとみんながスーツ着ている堅い業界。これまでも営業職だったのである程度の自負はあったのですが、全部の価値観を潰されて叩き直されました。父親が直属の上司として、言葉遣いから電話応対まで厳しく全てを教えてもらいました。


— 想定外の環境のなかで新たに感じることなどもあったのでしょうか?


菅澤 仕事をしていくなかで世の中ってこういう商売があるんだとか、一般常識ってなんだろうみたいなところを色々考えるようになって、やっぱり自分で何かをやりたいという想いが芽生えてきました。原料を売る商社ということで、「この原料ってなんなの?」というところから、「何に使われるの?」というところまで実は不透明で。そういった伝票だけが動いていく商売が性に合わなかったんです。前の仕事は、誰が作っていて、どういう人が買って着てくれるのかまで見えるというのが好きだった。自分たちが企画したものが世に出ていく楽しみを知ってしまったからこそ、もう一回それをやりたいなと。そこから、当時好きだったお香やキャンドルの仕事に興味を持ち、キャンドル作りを実家で始めました。




— 香りの世界で勝負しようと思われたのには、強い思い入れがあったのですか?


菅澤 全くないんですよね。どちらかというと営業マン的な感覚です。海外では以前からこういったフレグランスキャンドルは多くありましたが、日本にはまだ馴染みがなくて、インポート系のインテリアショップでは海外のキャンドルが2万円とか3万円とかで売られていたんです。だったら日本でこれを作って、こういうブランディングをしていけば売れるんじゃない?と営業的な感覚として感じたんです。


熊谷 確かに、「APFR®️」のような日本初のフレグランスブランドはなかったですよね。


菅澤 そうそう。お香とかも当時は「KUMBA(クンバ)」さんくらいしかなかった。もちろん、資生堂とか大手化粧品会社は昔から香水を作っているけれど、逆にそのレベルの企業しか作っていなかった。香りにはルームフレグランスと化粧品の2種類があって、化粧品として商品を作るには設備や基材の知識が必要で、当時の僕には無理だろうなと思っていました。その点、ルームフレグランスは海外のブランドや高い商品ばかりが日本の市場では売られていて、みんなギフトで貰っても置物状態で火をつけないでもいい香りと言っている一方で、アメリカやヨーロッパでは、がんがんキャンドルを焚いているし、匂いも強かったりして。そこで日本人的な嗅覚で強すぎず、弱すぎず、男性も好きになれるようなかっこいいブランドを作ろうと思ったのがきっかけですね。


— そこから、会社員として働きながらキャンドル作りを?


菅澤 空いている時間にどういうふうに作るのかや、仕入れ先などをネットで調べるようになって、材料を買っては実家の3畳ほどしかない納戸を作業場にして作るようになりました。それが27歳のとき。だんだんと友人の結婚式などのために作っていくうちに、これなら自分でもできるのではないかと自信がついてきたのですが、そこで新たに香り作りの難しさにぶつかりました。世の中は天然精油を使ったアロマテラピー全盛期だったのですが、僕がやりたいのはもっと海外で使っているような高級感のあるフレグランスキャンドルだったので、そもそもこの香りはなんなの?というところから考えるようになって。アパレル時代から、アラブなど中東の香り文化からインスピレーションを受けていて、一度中東の香料店で香料を買おうかとも試みたのですが、すごい金額をふっかけられてしまって……。自分は何も分かっていなかったんだと気がつきました。香りも自分で作れるようにならなきゃと思い、30歳で香りの勉強をするために香料会社に転職しました。


熊谷 2011年の31歳のときに「APFR®︎」をローンチされたと伺っていたのですが、そのときは香料の会社で働きながら?


菅澤 そうですね。仕入れ先のルートなどはすでに確保していたので、香りをどういうふうにつければいいのかといったノウハウだけちゃんと分かればいいくらいの軽い気持ちでいたんです。でも、実際に入社したら全然違う業務もあるし、勉強もしないといけないし、ノウハウだってそんな簡単にわかるものではなかった。だから、第一弾として3種類の香りを出したときは会社員をしていました。


熊谷 どのくらいの期間Wワークをされていたんですか?


菅澤 ブランドを立ち上げてから7年間はWワークしていました。学ぶべき知識は山のようにあるし、商品が売れてもまた材料などを仕入れないといけないので、自転車操業でとにかくやっていたのですが、どんどん口コミで広がってとてもじゃないけどWワークできなくなってきちゃって。地元の友達や後輩を誘って、徐々に規模が広がっていったという感じです。



まだまだ続く、対談インタビュー。中編へ続きます!


「APFR®︎」Founder / Director / Perfumer :菅澤圭太

www.apfr.jp


文:市谷未希子


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